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福島市から新潟市へ一家避難した子育て主夫の些細な気づき


by zaoribiyori
 「おせっかい」ってネガティブなイメージがあった。余計なお世話、食い入りすぎ、うっとおしい、一方的など。でも、こんなネガティブイメージは、(自分にとっては)ちょっと前までの話。社会が変わる、自分の身辺が変わる、自分が年を取る、ことによって「おせっかいな人」から受ける「おせっかい」が、とてもありがたいことだと、最近になって沁みてきた。そして、私見だけど、今の時代、誰もが本当のところは、「おせっかい」を求めているような気がする。

 親類も知り合いもいない新潟に引越して、1歳になる子どもを育てる。仕事もしなければならない。病院や保育園やスーパーや生活していくための諸々を、いくら都市部とは言え人から聞く情報もないまま、自分たちの嗅覚だけで選択するのはやはり心細い。自分たちで選んだ道だからと、のびのびと自由気ままにしている面と、不案内な街で生きる寂しさの両面を抱えているのが正直なところだ。
 
 家から50m先のドラッグストアまで、ほぼ毎日娘と一緒に買い物に行く。すると町内会の副会長の鹿島さん(50代女性)が、決まって沿道の草刈りや、プランターの花の手入れをしている。「買い物ですか?」とか「お散歩ですか?」とか「しっかり歩けるようになったね」と、100%声をかけてくれる。そして僕も子どものことや花のことや天気のことなどで返す。すると話は決まって15分は続く。今時候の新潟での過ごし方や小さい子の育て方、町内会の取り組みなど話は尽きない。僕もこういう人と話をするのが嫌いではない。何よりこんな話ができる人が近所にいることがありがたい。民生委員の早福さん(50代女性)は、犬の散歩を毎朝夕していてしょっちゅう出くわす。決まって10分話は続く。今時候の新潟での過ごし方…、まあ話は似たようなもんだ。こないだは鹿島さんと早福さんが一緒の時に遭遇したから、話は30分に及んだ。娘にしてみれば、さぞかし退屈だったろう。「あ、そう言えば家にアンパンマンティッシュあったはずだわ。」そう言って、ポケットティッシュを取りに家に戻り娘にくれた。とにかく我々のことを、お二人は気にかけてくれているのだ。ありがたい。

 娘と歩いていていろんな人とすれ違うけど、大きく分けて3パターンの人に分かれる。何か声をかけてくれる人:娘の顔を見てにっこり微笑んでくれる人:気にもかけない人。割合的には1:2:7というところか。以前の自分が疑いもせず7割側にいたから、当然の比率ではあると思っている。しかし、ここで娘を見て二コリとしてくれる人がいるととてもうれしい。話しかけてくれる人ととは、正直言って友達になりたいぐらいだ。通りがかりなのに遊んでくれる人までいる。「おせっかい」の趣旨とはずれている気もするが、とにかくこういうのってうれしくて、ありがたいもんなのだ。

 新潟市の行政が、引越してきた当初から素晴らしいと思っていた。「各種施設の充実」や「街づくり」や「細かな情報提供」や「民間との連携」など挙げるとキリがない。で、僕が一番驚いたのは、これまで新潟市役所本庁や区役所のいろんな窓口で手続きをしたけど、窓口担当が皆一様に笑顔なのである。親切で丁寧なのである。下手な携帯電話ショップより親切だ。これまで役所の窓口に行くことは、憂鬱でたまらなかったけど、新潟市ではそれが覆された。大きな役所の窓口周辺でキョロキョロしてたら、「どうなさいましたか?」「かくかくしかじかの手続きがしたいんですが」「それでしたら何番窓口ですが、事前にしかじかの届出用紙にご記入されてから番号札をお取りください」って、僕とは関係ない窓口の手すきの人が、僕の様子を察して身を乗り出して案内して、最後にニッコリ微笑んだ。役所の人にここまでのサービスを受けたことがなかったので、ちょっと感動したのである。「おせっかい役人」に敬意を表したいのである。

 NHK朝の連続テレビ小説っていうのを、生まれて初めて見続けているけど(基本的にどれも面白い)、ここ何回かのヒロインは一様に「おせっかい」だ。誰にも頼まれていないのに困っている人がいたら余計なお世話をし、とんだトラブルを起こすけど最後はめでたしめでたしとなる。国民皆「おせっかいな人」をどこかで望んでいる。何か今の時代って気安く人にものを頼んだり、困った時に助けを求めたりしにくい時代になってしまったような気がする。だからこそ一方的な「おせっかい」が求められている。僕にとっても目指せ!「おせっかい野郎」だけど、「おせっかい道」はそう容易くないはずだ。少しずつ「おせっかい」を学んでいこうと思っている。
# by zaoribiyori | 2012-11-12 14:12
 今日10月31日は、妻が4月から仕事を始めて最大の大一番と言っていい日であった。「光るファッションショー」は、夜間の交通事故を防ぐために蛍光材を衣服や小物に取り入れたファッションデザインを披露するイベントである。総合プロデュース的に段取り、仕切る担当となった。妻は交通安全に関わる仕事をしている(警察官ではない)。この7ヶ月間、妻の頭の中には常にファッションショーの事が頭にあった。そうすると当然、僕の頭のどこかにもファッションショーが貼りついていた。それが今日終わったのである。

 職場内、そして外部関係者とさまざまな苦労や悔しさや苛立ちや焦りを感じながらここまで来ていた。僕は横で見ていて、その一端でも担ってあげたいと思ったがそうはいかない。今月の後半に入ってくると毎晩、仕事の終わりは20時を過ぎていた。先週は朝7時に出勤し帰りは22時を過ぎた。最も遅い日は23時半という日もあった。職場までの3.5㎞は公共交通手段がないため、徒歩通勤している。帰りは迎えに行っている。遅い時間は、寝ている娘を起こして暴れ泣くのをクルマに乗せ、迎えに行く。妻が18時には帰宅する日でさえ1日が長く感じるのだから、ここ2週間は試練だった。娘は急に思い出したように「ママ―ママ―」と泣き叫ぶ。夕方頃になると、「迎えに行こう」と玄関まで僕の手を引っ張る。「ママはまだ仕事が終わらないんだよ。」もちろん言葉を理解していない。どうしようもなくママを求めてもママはいない。娘を風呂に入れて寝かせる毎日の妻の役目も自分がこなす。帰りが遅い働き手を家で待つということが、こんなにもきついものかと実感した。たったの2週間だけど。そして言うまでもなく、一番きついのは働いている妻だ。帰ってから一緒に温かいごはんを食べることだけは守り続けた。

 今日の午後、娘と一緒に新潟市のコンベンションセンター「朱鷺メッセ」にショーを見に行った。300人近い観客席はすべて埋まり、各メディアが居合わせ、関係者が配置に付いていた。妻は会場全体を見渡せる場所に立ち、緊張した面持ちで本番を目前に迎えていた。舞台装置、音響、照明、MC、そしてモデルが着歩く光るファッションと、ショーの印象は思ったよりクオリティが高かった。相当な下準備があったのを知っているだけに、一層感慨深く僕は娘を抱っこしながらショーを見ていた。娘も舞台を歩くモデルをキョロキョロと見て、何か言葉になっていないことを話していた。

 とにかく、無事に終わって安心している。妻は今、スタッフと打ち上げに参加している。ご飯と風呂を済ませ、娘をすったもんだの挙句寝かせ付けたところで、缶ビールを開けた。打ち上げが新潟駅前だから電車で帰ってくるとのことで、迎えに行く必要がない。自分にとってもほっと一息をついて、一人打ち上げをしながらこれを書いている。3人にとってのささやかな2週間の闘いが終わったのである。 
# by zaoribiyori | 2012-10-31 22:15
 子育て主婦(主夫)なら分かりきっていることを、日々の嘆きを解消するために敢えて書く。
 
 家事とは段取りだとか効率だとか要領だとかよく言う。確かにその通り。料理ひとつ取っても、同時に煮たり焼いたり切ったり洗ったりと手を動かし火にかけレンジをまわす。何を先に手がけ、何を後にまわすか。瞬時に頭を回転させ(時には体が勝手に動き)、手際良くこなしていく。家事効率の良い人は。さらに掃除だの洗濯だのを挟んでいたりする。家事半人前の自分でも、この流れがスムーズで、余計なことを考えずに家事に没頭して体を動かしている時は気持ちがいいもんだ。ひと通りやり終えて、コーヒーを淹れて飲む時間は至福に近い。と、まあこれは家事だけをこなしていればよい時の話。
 
 一方、育児の時間はどうか。これは当たり前だけど、段取りだの効率だのっていう運び方はできない。さらにうちの娘(1歳8カ月)はイヤイヤ期という時期に差し掛かっているから、何をするにも読めない。大好きな外遊びに誘うとイヤだ。おなかがすいたようなので、ごはんを用意すると食べたくない。寒そうだから服を着せようとしても自分で着るから手を貸すんじゃないと。でも自分で着られる訳もなく、長袖シャツを足から履こうとしている。読めない行動はまだいい。娘は散らかしたおもちゃを自分ではまだ片付けられない。見せて覚えさせるために僕が片付ける。その側からまたおもちゃをぶちまける。ごはんやみそ汁を、もうおなかいっぱいだからとお茶碗を僕に差し出し、僕が受け取る直前に敢えて茶碗をひっくり返し床にこぼす。ギリシャ神話の「シシュポスの岩」を思い出す。全能の神ゼウスの怒りに触れ、シシュポスは急峻な山の頂上に自分よりも重い岩を運び上げるという罰を受ける。岩は山頂直前で転がり落ち、また頂上まで運び、また転がり落ちる。これを延々と繰り返すという罰。「意味のない労働は何よりつらい」という古からの、労働観念において不変の定則を表した話だけど、ついついこれを考えてしまう。娘が散らかしたものを片付けるのは、徒労でも無益でもないことは分かっているけど、ついぐったりしてしまうのだ。

 家事と育児を両立させることが結構大変なことは、ここにある。子どもは家事を妨げてくれるのだ。家事なんてやってないで自分に構えと。泣きじゃくる娘を放っておけないから、娘と遊ぶ。だから段取りや効率重視で家事なんてこなせないのである。自分のためにやりたいこともある。休養の時間も必要だ。こんないろなんものの狭間で、多くの主婦(主夫)は毎日闘っているんだな。俺は気楽なほうだけど。
# by zaoribiyori | 2012-10-21 11:46
 自分の生涯で弁当を作る日が来るなんて思いもしなかった。そもそも主夫を始めたころは、妻の弁当は妻が作っていた。僕が朝食を作っている横で、妻が前日に仕込んでおいたものや朝の短い時間で簡単に作れるものを弁当に詰めていた。これを横から僕が、弁当の1品を手伝い2品目を追加したりしていた。1ヵ月を過ぎた頃には100%僕が弁当を作っていた。「さすがに弁当までは作んないからな」っていう当初の主夫業務規約が破られ、いつの間にか巧妙な手口にはめられていたのである。
 
 朝食は、ごはん、納豆、みそ汁、プラス1品が基本。つまりみそ汁と1品作れば終わり。納豆は1パックに対して2~3倍の混ぜ物(小女子やらキノコ類やらネギやらチーズやら葉っぱやら豆やら、とにかくそのへんにあるもの)を突っ込むので、相当なかさになる。これがシンプル朝食。ほとんど何も考えない。昼食は、妻に詰めた弁当の残りや昨夜の残りを加工したものなど、あり合わせのもので食べる。娘の栄養面以外、何も考えない。夕食は、材料次第で差が出る。基本的にはしっかりしたものを作る。妻が仕事から疲れて帰ってくるので、がっかりはさせられない。多少プレッシャーがかかり、何を作るかちょっとだけ頭をひねる。それでも豪華(うちにしてみればだが)一点張りで難を逃れることができる。

 夕食のおかずに頭をひねると言っても、弁当ほどではない。弁当は奥が深い。まず弁当は、その容器をなんとしても埋めなければならない。1品で終わる訳にはいかない。基本3品は入れる。うちの弁当箱は、アルミ製で円筒状の二段重ね。一段目にはごはんを詰める。二段目におかずを詰める。この一段の底が通常と比べて深いのが手こずるところだ。話が逸れるが、この間テレビで、作家の角田光代がうちと同じ弁当箱に毎日弁当を詰めて仕事場に持っていっているのを見た。月曜は洋食弁当、火曜は中華弁当、水曜は和食弁当…と、よくやるよなあと感心して見ていた。話を戻して、この深い弁当箱に平べったいものやかさのないものではなかなか埋めることができない。だから厚揚げや角煮のようなものがドーンと居座るとスペースの半分くらいを占めてくれるので助かる。さらにもう2~3品詰めなければいけない。彩りも考えたい。肉、魚、野菜のバランスも考えたい(言うほど考えてないけど)。我が家は冷凍食品は基本的に買わない。ということで、前日から「明日の弁当には、あれとこれと…」と頭を悩まし始めるのである。誰かのために作る弁当って、食べるところを自分で見れないから、安易に手を抜けないところがある。一緒に食べるのであれば、材料がなかっただの味付けがどうだのって、その場で言い訳ができる。妻が、あまり心落ち着かない職場で迎えるささやかな楽しみになんとか応えたいと思うと、一定の水準はキープしたいのである。

 妻は毎日帰宅すると、今日の弁当の感想を言ってくれる。これがありがたい。そして大抵「おかずが多すぎる」と言う。だから最近は、「おにぎり弁当」や「昨日の残りカレー弁当」や「いなり寿司だけ弁当」などもありになってきて、ちょっとはプレッシャーから解放され始めている。一度だけ妻の職場である庁舎の食堂で食事したことがあった。プラスチックの皿に盛られたA定職を、おっさんたちが黙々と食べる姿を見て、「ここで食事するのは気が滅入る」と思った。家族が作るおにぎり2個で十分満たされる気持ちがわかるのである。

 
# by zaoribiyori | 2012-10-08 18:13
 慣れない主夫生活を始めてから、読むことができなかった長編小説を半年ぶりに読んだ。レイモンド・チャンドラー著「ロング・グッドバイ」。もしかしてこの半年で取りかかった長編はあったかもしれないが、途中で挫折してしまっていた。今回は違った。みんなが寝静まって自分も眠いけど読まずにはいられなかった。娘の昼寝中に読み、トイレに持ち込み読み、運転中に娘が寝たすきにクルマを止めて読んだ。時間がないから読めないなんていうのは言い訳でしかなかった。読みたくて読むべき作品なら長くても読了できることがわかった。

 読み始めたら止めることができなくなったのには、作品に読ませる力があったからだ。文体にしびれた。フィリップ・マーロウにしびれた。ストーリーテリングにしびれた。もちろん村上春樹の訳が、チャンドラーの乾いた文体を損なわずに日本語での表現を開いていったことも大きいと思う。「ロング・グッドバイ」をなぜもっと若いうちに読んでおかなかったのだろう?と一瞬後悔したけど、やっぱり今読むから意味があったようにも思う。だってマーロウは、児童公園でよそのお母さんに愛想笑いをする必要はないし、折り込みチラシで卵の安いスーパーを比較することもないし、炊飯の水加減に迷うこともない。あまりにも自分の今の生活とかけ離れた男の世界だから、憧れを抱きながら引きこまれていったのだろう。
 
 決して幸福じゃない男の生きざまだけど、どこの世界に幸福な男の生き方を定義できる言葉や方法論があるだろう?そもそも「幸福」なんていう言葉から一番遠いところにいなければいけないのが男なのだと。あれ?ちょっとかぶれてきたかな。とにかくマーロウを端的に言い表せば、「不完全な男を完全に生き切っている」ということだ。ほとんどの男が不完全で、ほとんどの世界は絶望的に不完全だ。いろんなことに抗いながら、不完全さを生き切るという答えの一端が僕には伺えたのだ。この小説には「ハードボイルド」なんていう形容では収まりきれない男の生き方が、言文と言外にたっぷり含まれていた。

 恐らく僕は、理解不足から読みこぼしをたくさんしてしまっているはずだ。今度は、丸一日完全フリーな日ができたら(恐らく当分ない)、ぶっ通しで読んでみたい。そして、僕の英語力では一生かかるかもしれないけど、原文にチャレンジしてみたいとも思う。
# by zaoribiyori | 2012-10-01 23:27